昭和48年09月18日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に三宝様踏むな三宝様踏むと目が盲れると言うが、三宝様は実る程かがむ人間は身代が出来たり先生と言われるようになると、頭を下げる事を忘れる神信心して、身に徳が付く程かがんで通れ、兎角出る釘は打たれる。よく頭を打つと言うが天であたまを打つのが一番恐ろしい、天は高いから頭を打つ事はあるまいと思うけれども、大声で叱ったり手を振りあげたりする事はないが油断をするな、慢心がでるとおかげをとり外すぞ。」
世に三宝様踏むなと言う、尊いもの又大事なものと言う風に頂きました、三宝様とは此処では穀物の意と、実を言うと是はもっともっと深い意味があると思いますね、勿論穀物も尊いものです、言わば穀物は命の根になるものですから、こんな尊いものはありません、ですから穀物を粗末にしたりする事は是はそれこそ、目が盲れると言う程しに、なものですから大事にしなれければならん。ですから私共がお徳を受けて行くおかげを受けて行く事の為に、どうでも必要なもの。
又は大事なものそれをだから尊んで行かねばならない。と言う事になる訳ですね。身に徳を受ける、身に徳が付く程屈んで通れと仰るのですから、信心さして頂く事によって信心の徳と言うものが段々身に付いて来る、自分が気が付かないけれども段々信心の徳が身に付いて来る、だからそう言う風に信心が実って来る、と言うか信心が分かって来ると言うか、信心が自分の血肉になって来ると言う事は、もう徳を受けて行きよる事ですね、信心がもう血肉になっておるのですから。
だから自分でもそれを感ずる、信心を頂いておる事の有難さと言うものを、感じておる事はもう既に、お徳を段々頂着始めている事だと思うです、だからであればある程にです、いわゆるかかんで通ると言う事は、いよいよ実意丁寧にならなければいけない。同時にいよいよお徳を受けて行く事の為の、例えば元になる様な物、そういう尊いものがあるのですから、その尊いものを踏み付けたり、それを排斥したり退けたり、しては勿体ない限りであります。
成程と言う事をしよると、本当に目が盲れると言う事は心の眼が開きかかっておる、その心の眼が私は塞がってしまうと思うです。いよいよ心眼、いわゆる心の眼を開かせて頂く事の為にも、事柄を大事にしなければなりません、いわゆるお徳を受ける、お徳の元と思われる様な物を大事にしなければなりません。ですからまあー難はみかげと仰るのはどう言う事かと言うと、難そのものはおかげではなくて難によって力を受ける。難によって徳を受けるから、難はみかげと言うのです。
ですからその難と思うておるその困ったと思うておる事を、お粗末にする事は三宝様を踏み付けたり、粗末にする事と同じ事になる訳でする。昨夜は合楽会でした、私が途中から中座しましたので、若先生が代わりに出席してくれました、話しの半ばにでしたけれど、こう言う様な場合には、親先生どう言う様な頂き方、受け止め方をしたらよいでしょうかと言う、問題で御座いました、と言うのは企画などで色々企画がなされます、それに何時も私は出ませんけれども若先生が何時もそれに出ている訳です。
そうすると信者さん方の例えば色々の企画が、話合いが進められて行って横で聞きながら、それはちっと良過ぎはせんだろうか、それゃちっと家には、例えば物一つ出来るに致しましてもですよ、ちったまだ合楽には勿体ない事じやないでしょうかと言うのがあると、こう言う、そう言う時に僕の姿勢と言うのはどう言う風にあったら良いでしょうかと言う訳なんです、それで私が申しました、 例えば此処に御普請が出来る。是は御普請にかかわらんのですけれども。
話しがどんどんこう進んで行く時に私が横から口を入れて、それやちっとは良過ぎるバイ、とかなんとか言うたんじゃ、折角の神様の働きが、例えてまあ金額で申しますならですね。壱千万位で例えば建築なら建築で良かろうとこう私が思うとってもです。んなら五千万円でやろうと言う様な働きが、そう言う話があっておるなら、とてもとてもそれは後で考えたらです、そりゃとても勿体ないごたる、そう言う事はちったあ合楽に良過ぎると言うたら本当に一千万円になるでしょうね。
私が言うたら親先生がああ言われるからと言う事になるでしょう。けれども私はそれを何時もの場合ですけれども黙っておる、そう言う神様の働きがあっておるんだと思う、ですからその事がおかげを頂きます様にと、ただ祈るだけである。まあ言うたら黙って治めると言う事にも繋がるでしょうね、それで例えば合楽のその、この建築の事でもです、本当に皆さんの素晴がらしい、素晴らしいと言うて下さる様に行き届いた、しかも資材なんかも最高の物を使って。
例えば職人さんなんかでも最高の技術を持った人に、頼んで成程他所よりも場合には倍も思われる様に高い様な事もあるけど、だから美事なものが出来て行くんだと。お金とて自分が払う訳じゃない、神様がお払いなさるとじやから、そう言う受け方が一番良いんだよと、それでも僕はそんな受け方でいいんでしょうかと言う、僕だってあんた私の後継ぎをせにゃんとじゃけん、そう言う稽古をせじゃこてと言う様話で御座いました。だからそう言う受け方であればです、楽な事は楽ですね。
もう自分の感情とか人情を出さない、是は皆さんのお家の場合であってもそうです、周囲からそう言う例えば働きが起こって来る時に自分の考えだけで。いやそれはどうこうと言わずにそう言う働きを、むしろその働きが成就する様に、願わして頂くだけで黙って言わばおかげを受けて行く、黙ってその事は治めて行く、その事とちょっと意味は違いましょうけれども、黙っておさまる事にも繋がる。先日から黙って治めると言う事が、只黙っておれば良いと言うのじゃなくてそれこそ。
暖かい親情ですね親の情をもって、神の情をもって黙って治めると言う意味の事を頂きましたですね、今日は矢張り黙って治めると言う意味に繋がるのですよね。今私と若先生との話のやりとりの事を聞いて下さってもそうです、だから親先生はそう言う受け方で良いだろうけれども、私としてはそう言う受け方で良いだろうかと、それはあんた、私のあんた後継ぎをせにゃんとじゃけん。
そう言う稽古をせにゃいけんですよと申しました事です。例えば物一つ買わせて頂くでも私どもでは、五千円なら五千円位の物でも良いと思うです、そうするとなら高橋さんや秋永先生の様な方達の場合はもう必ず、そりゃお粗末そりゃ詰らん、と言うて五千円と思うておったのが壱万円になったり二万円になる様な事すらあるのです、そりゃ良過ぎるばいと言うたら、もうそのまま今度の倉庫の二階どんがそうです私の思う通りにしとったら、それこそほんの唯物置に過ぎなかったでしょう。
けれども秋永先生、高橋さん、正義さん辺りに任せ切っておりますから、もう出来よるのと、ほうこげな事しよるの、ほう良過ぎるばいと思うけれどもそれは、言わんでおりましたから、ならあんな立派な物が出来た。やっぱり気分が良いです、そして成程是が合楽に相応しいっとまあ相応しくなかっても、相応しいものとして、こちらの信心をそれだけ高めて行く外はないと言う心が起こります。
勿体ないと思うたら勿体ないと思うだけの信心を、こちらが高めて行くと言う事、だから私が昨日若先生に申しました事を後で、考えさせて頂きよりましたら、あんまり簡単な返事だったな、あんな返事でよかったろうかと私は思いました。あれもはーちっとは良過ぎると思っても黙って受けて行くが良い、もう少し内容のある黙ってでなければいけなかったが、あんな是は訂正しなければいけないのじやないだろうか。
是は大事な事ですからね、言うならと思うて昨夜夜中に此処へ出て来て御祈念をする時に、その事を思わして頂きましたら、神様から頂く事がね楽と言う字の下の木と言う字を小さく頂いたんです。そして尚お願いさせて頂きよったら今度は下の木と言う字を大きく頂いた。そして私が気付かせて頂いた事はです、成る程黙って居ると言う事は楽です、黙って済まされる事は非常に楽です。例えば家の中にどんな事があっても黙って祈れるしかも暖かい心で祈れる、こんな楽な事はないでしょう。
自分が一々出しゃばって、それはこげんが良かばい、そげんではいくもんかと言うよりか、楽でしょうが、もし信心の内容と言う物が暖かい心で、その事を、あの人達があんな話しをしとりますが、どうぞ神様、お心に適う様な話に付きます様にと言う様な、祈らして頂く位が一番楽なんです、けれどもそう言う内容ではなしに、例えば、今のものが出来るとか、そあ言う様な場合です一千万位で良かろうと。
例えば一千万円で良かろうと思うとるとに、五千万円もの話しが出ますと、そりやあちったあ良過ぎりゃせなか、贅沢過ぎりゃせんかと思う。けどそう言う働きがあっておるんだと言う頂き方だけでは、楽だけで行けません、そこでその内容を祈らせて頂く、それを黙っていうなら頂いて行くと言う事がです、それが心を豊かに大きくする稽古だと言う事を頂きました。ははあ大きな信心とか、大きな心の受けものとかと言うのはね、そう言う様な時に大きくなって行くのです。
お互い大きな心を頂いた、木と言う字が小さいのが言わば大きくなる、その心が大きくなると言う事が楽なんです、ですから何時の御理解でしたかね、楽とは大きな心になる事だと頂いた事があります、だから楽とは大きな心になる事だ。どんな事でも自分の心の中に黙って受けられると言う、心なんですけれどもそんならどう言う心にならせて頂いたら、大きくなるかと言う事、只心の中ではいらいらもやもやであったり、あんな事ばっかり言うてと言う様な心の状態ではいけない。
自分にそう言う風に憚らない様な、例えば問題の時には今こそ心が大きくなりよる時だと言う、頂き方をしたらその事を通して、お礼を言う心すらが生まれて来るです。ああ神様が、こう言う問題こう言う事柄をもって、自分の心を大きくして下さってあるのです、と言う事になるんですね、それを一々干渉する一々、そげな事はいかんこげんがええと、例えば、私が言うとするならです。
現在の合楽の、この御建築でもこんなもの生まれておりません。言うなら、私の心はそう言う例えば。合楽としては憚らない様な事であってもです、それを自分の心の中に修めて来た、いわゆる黙って治めると言う事の、違った角度から、今日は聞いて頂いとる訳です、そこでです、私共が世に三宝様を踏むなと言う事なんです。私共が徳を受けて行く力を受けて行くと言う事はならどげんすれば、徳を受けるか、力を受けるかと言うその内容です、それこそ三宝様にも等しい尊い勿体ない事柄までもです。
自分が都合が悪かったり、自分が損がいったり痛い思いをする様な事だったら、そげな事は痛かそげな事は困ると言うて、外してしまう様な事であっては何時まで経ってもそれは三宝様を踏み付ける様な物であるから、おかげにならんそれこそ開きかけておる、いうなら心の眼まてが見えなくなってしまう、神様の思いが分からなくなってしまう。神様の思いが分かると言う事は例えば、その時に分かっていない例えばなら、例えばですよ企画なら企画で五千万なら五千万で家を建てる事が決まった。
一千万が確か無いと思うけれどもです、そう言う働きになって来たのですから、それを黙って修めて行く所の祈りをもって、黙って治めて行く所の所謂心を大きくして行く。稽古を此の事によってさして頂くと言う様な、頂き方をさして頂いてそしてそして一千万円と思いよったけれども五千万円のものが出来上がった時にです、神様の思いが分かるでしょう、成程神様がこげな立派なものを造って下さる為だったか、あの時に色々言わんで良かった、思わんで良かったと言う事になるでしょう。
だからそれをうんなら一千万円なら一千万円で例ならえば私がです、そりゃ良過ぎるばい一千万円でよかばいと言いよったら、そしたらあそこもこげんすりゃあよかった後から、ここもこげんすればよかったと言うて、言うような事になりかねないそれでは何時までたっても、神様がおかげを下さろうとする心が分からんのです。それでは。神様の思いが分かり神様の心が分かる為にもです。
私共は黙って治めると言う信心を愈々なさしてもらわねば、事柄により問題によってです、場合には暖かい親情をもってそれを黙って祈って行くと言う事によって、自他供におかげを受けて行く自分も楽である。又昨日私と若先生との言葉のやり取りであってもです、唯その時その時にガタガタ言うちゃならんと言う事も事実です、けれども唯言うちゃならんだけではいけん、その事によって自分の心が大きくならせて下さってあるんだ、と言う働き。
神様がと言う様な思いをもって、ああ言う風に話しを進めてあるのが分からんのだから、唯そこを黙って祈って行くだけだという、黙って治めて行く願い方又はその事によって、自分の心が大きくなって行っておると言う事、ですから此の事によって自分の心が大きくなって行くんだな、はあお徳と言うものは此の様にして、頂いて行くんだな力と言うのは此の様にして付いて来るもんだな、成程こう言う所を通った暁にはじめて、神様の思いと言う物が分かるんだなあと言う事が分かって来る。
身に徳が付く程屈んで通れ、そこで言うならば自分の思いがこうだああだそりゃあ親先生、この場合にはとうしたら良いでしょうかとお伺いがあった場合には別です、その時には私の思いであり神様の御神意を頂いて神様の思いである、私の信心で思わしても羅える所の答えが出て来るでしょう。けれどもそうではない自ずとそう言う働きが起きて来る時自分の心の中にああ、あげな事ばかりしてから。
ありゃあちょっと大き過ぎると言った様な例えば思いをする時にです、それをそう思わずにああ今こそ自分の心を大きくして下さる働きが、あっておるんだと黙って治めて行く。黙って願って行く、そして成程一千万の建物より五千万円の建物の方がよいし、そして成程何時いつ迄も有難いな有難いな思われる 神様はこちらの人間の心では一千万円と思うとったが、五千万円のおかげを下さろうとする、働きがあの時あっておったんだと言う事が、そのおかげを頂いた後で分かる。
そこで親の思いが分かり、神様の思いが分かると言うのはそう言う事なんである。だから私共はねそれこそ三宝様に等しい様な物をです、粗末にしたり疎かにしたり、それに不平不満を感じておる様な事はないだろうか。とするならばそれは三宝様を踏み付けるのも同然だと言う事を和から市て貰う。そう言う時にその黙って治められる信心、その黙ってと言うのも、もう言うたっちや言う事を聞かんから。
もう構わんぞと言うものでなくてです、暖かい心で祈りながら、又はそう言う時に自分の心を愈々大きくして下さる働きが、あっておるんだと思うて、お礼を申し上げて行く様な心で参りますならです。三宝様が三宝様としてのおかげを所謂、その事によって愈々信心がわからしてもらう、信心が高められる、勿論言わば徳が付く程と仰る。その徳が愈々身に付いて行く所の、おかげが受けられる思うですね。
どうぞ